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5月, 2020の投稿を表示しています

毒舌家の難しさについて

ときどき Twitterで拝見するのが、プロフィールに「毒舌家」とか「斜に構えた」と書いてあるアカウントが物申す系のツイートをし、それがバズる光景である。 これはある意味でインターネットが生んだ産物だ。どこのコミュニティにも斜に構えた人間というのはいたものだが、こういった人間が声を大にして主張できる機会はかなり限られていたと思う。 しかし、人間というものは匿名を無敵の人と勘違いし、社会では言えないようなことを、堂々と主張している姿は近年インターネット、特にSNSや掲示板といったところで見られるようになった。 もちろんいいところはある。ごくたまに斜に構えた意見を見て、あぁそういう考えもあるかもな、となることはないわけでもない。 しかし、残念なことに、Twitter上で拝見する、自称毒舌家の斜に構えたツイートのうち、大半は主語が大きかったり、本人の欠陥を考慮していなかったり、とにかく何の感心も得られないものが多い。 そのくせ、否定的な返信に対しては、ろくな反論もできてないのに「こういうかわいそうな人もいるんですね」といい、「こんなビシッと言ってくれる人いなかった!」といった称賛ツイートには「そうなんですよね~」と自慢げに返す。つまるところ、彼らは、賛否両論な意見を出すことで、議論を活発化させたいのではなく、ただ「斜に構えて毒を吐いた」とドヤ顔をし、ちやほやされたいだけなのである。 こういった人間が、「毒舌家」とプロフィールに書くのは、結局ただの予防線なのである。「毒舌家」と前もって書いておけば、毒を吐いても許される、と勘違いする人はなんと多いことか。毒を吐くというのはある程度のリスクを背負うべきなのである。 毒を吐くということについて デジタル大辞典によれば、毒を吐くというのは、 「嫌みを言う。相手のことをけなす。毒づく。」 という意味になるらしい。この毒を振るうものを毒舌家というようだ。 つまり、「毒舌家」というのは原義の段階で、予防線になりえない。他人に嫌味を言うということは、他人に嫌味を言われて当然だし、そのリスクは背負うべきである。 とても勘違いしている人が多いが、よく現実のコミュニティで見られる自称毒舌家の大半は、これを理解していないし、自分が嫌味を返されると不快感を示すのだ。嫌味を受け入れられない毒舌家は、...

正しくない正義について

正しくない正義について コロナ騒ぎ、いつになれば収まるのだろうか、全く先の見えない中で、ある勢力が徐々に悪目立ちしていることを皆さんお気づきだろう。 所詮、「自粛警察」というやつである。 確かに、依然としてコロナウイルスの脅威に晒され、緊急事態宣言が出ている中で、マスクもせず、外に出歩くだけでなく、電車に乗り、飛行機に乗り、自分がコロナウイルスに感染しているとは露程にも思っていないか、あるいはウイルスをバラまいてもなんとも思っていないか、他国であれば射殺されてもおかしくないような人々は存在する。(少し言葉は強めだが、実際にそういう国はある) 身近な例を1つ挙げよう。 春休み前に、大学側から「遠方への外出を自重するように」というお達しがあったし、ご丁寧に健康管理表まで配布してきた。春休みの帰省をモチベーションにそこそこ頑張ってきた2ヶ月が水の泡になるのは少し悲しかったが、こういう国家の一大事は国民の意思統一が絶対条件であると信じている俺は、帰省をせず、アパートでのんびり過ごした。何より、大学側の圧、というより懇願にも似た何かを感じた。 しかし、蓋を開けてみると、この春休みに帰省した生徒は半数近くにも上り、その行き先の大半は、東京や大阪といった大都市だった。 このことに俺は大いに失望させられた。たかだか1週間弱の帰省が大勢の人にとってそこまで急を要することだとは思わなかったし、ついでにいうと、属している学部のことを考えれば、俺たちこそ、しっかりとした態度で臨まなければいけないと感じていた。だからこそ、特に後者の点でとてもショックを受けた。 にも関わらず、帰省から戻ってきた途端、「大学はどうなるのか」「単位はどうなるのか」「こんな対応で大丈夫なのか」…そういった質問が学務課に浴びせられているのを見て、むず痒くなったし、こいつらと一緒に将来やっていかなければいけないことにげんなりした。なんて自己中心的な人間が多いのだろう。確かに人間は自己中心的なものであるというのは当然のことではあるが、いつまでガキのままでいるんだ。何を今まで学んできたのだろうか。他人に対して要求するなら、まず自分の義務を果たす必要がある。 もし俺が「自粛警察」の一員であれば、Twitterで鍵もかけず、大々的に悪口を述べていたことだろう。 不満を抱いているのは...