ときどき
Twitterで拝見するのが、プロフィールに「毒舌家」とか「斜に構えた」と書いてあるアカウントが物申す系のツイートをし、それがバズる光景である。
これはある意味でインターネットが生んだ産物だ。どこのコミュニティにも斜に構えた人間というのはいたものだが、こういった人間が声を大にして主張できる機会はかなり限られていたと思う。
しかし、人間というものは匿名を無敵の人と勘違いし、社会では言えないようなことを、堂々と主張している姿は近年インターネット、特にSNSや掲示板といったところで見られるようになった。
もちろんいいところはある。ごくたまに斜に構えた意見を見て、あぁそういう考えもあるかもな、となることはないわけでもない。
しかし、残念なことに、Twitter上で拝見する、自称毒舌家の斜に構えたツイートのうち、大半は主語が大きかったり、本人の欠陥を考慮していなかったり、とにかく何の感心も得られないものが多い。
そのくせ、否定的な返信に対しては、ろくな反論もできてないのに「こういうかわいそうな人もいるんですね」といい、「こんなビシッと言ってくれる人いなかった!」といった称賛ツイートには「そうなんですよね~」と自慢げに返す。つまるところ、彼らは、賛否両論な意見を出すことで、議論を活発化させたいのではなく、ただ「斜に構えて毒を吐いた」とドヤ顔をし、ちやほやされたいだけなのである。
こういった人間が、「毒舌家」とプロフィールに書くのは、結局ただの予防線なのである。「毒舌家」と前もって書いておけば、毒を吐いても許される、と勘違いする人はなんと多いことか。毒を吐くというのはある程度のリスクを背負うべきなのである。
毒を吐くということについて
デジタル大辞典によれば、毒を吐くというのは、
「嫌みを言う。相手のことをけなす。毒づく。」
という意味になるらしい。この毒を振るうものを毒舌家というようだ。
つまり、「毒舌家」というのは原義の段階で、予防線になりえない。他人に嫌味を言うということは、他人に嫌味を言われて当然だし、そのリスクは背負うべきである。
とても勘違いしている人が多いが、よく現実のコミュニティで見られる自称毒舌家の大半は、これを理解していないし、自分が嫌味を返されると不快感を示すのだ。嫌味を受け入れられない毒舌家は、一方的に不快感を生産し続ける人間となり、当然の帰結として嫌われる、孤立するものである。
この毒舌、最近では「真理をついた皮肉」であったり、「ユーモアを交えた悪口」も含まれるようだ。どうやら、Twitterで見られる毒舌家の大半は、嫌味を言い続けるアカウントというより、「真理をついた皮肉を言ってチヤホヤされたい」人々と定義することができそうだ。
しかし、この真理をついた皮肉、というのは本当に難しい。何事も先駆者になるのは大変なことだが、これと同じように、誰も発見していない皮肉を探し出すというのも大勢の人にとって途方も無い作業であり、毎日のようにTwitterでバズるわけないのである。つまり、自称毒舌家の真理をついた皮肉は、真理をついた皮肉ではないのだ。
その大きな理由として、主語が大きかったり、本人の欠陥を考慮していないから、ということを挙げた。ただし、これらのツイートはそれ以前に根本的な問題がある。
この種類のツイート、真理をついた皮肉でもなんでもなく、そんなこと君が言う前からみんな知っているよ、となることが本当に多い。それぐらいのことを、あたかも「俺は知ってるけどみんなは知らないだろう」と認識してしまう時点で、その人間はたかがしれてしまうのである。
よく、こちらが言わなくてもわかるようなことを、いちいち指摘してきて会話が潤滑に進まずイラついた、ということがあると思う。この自称毒舌家さんたちは、このいちいち指摘してくる人間と似ている。根本的に、「こいつわかってねぇなと」いう前提があり、他人へのリスペクトが足りず、想像力が足りていないことを全く認識していていないのである。
俺は、Twitter上の自称毒舌家が昔からなんとなく嫌いだったが、そもそも他人へのリスペクトが足りていない人、想像力が足りていない人が嫌い、ということを考えれば、当たり前のことだった。
おまけ
友人に「それは毒舌家に限らないのでは」と言われ、あぁなるほどなと思った。確かにそうだ。称号とは他人につけられるもので、自称するものではないのだ。
他人に認められて初めて毒舌家と言われるようになるのだ。認められるというのはとても難しいことである。そしてそれに驕ってもいけない。真の毒舌家は、自分のことを毒舌家とは言わないものである。
おまけの部分だけでこの考察が終わったのではないか、ということはあまり考えないようにした。
Twitterで拝見するのが、プロフィールに「毒舌家」とか「斜に構えた」と書いてあるアカウントが物申す系のツイートをし、それがバズる光景である。
これはある意味でインターネットが生んだ産物だ。どこのコミュニティにも斜に構えた人間というのはいたものだが、こういった人間が声を大にして主張できる機会はかなり限られていたと思う。
しかし、人間というものは匿名を無敵の人と勘違いし、社会では言えないようなことを、堂々と主張している姿は近年インターネット、特にSNSや掲示板といったところで見られるようになった。
もちろんいいところはある。ごくたまに斜に構えた意見を見て、あぁそういう考えもあるかもな、となることはないわけでもない。
しかし、残念なことに、Twitter上で拝見する、自称毒舌家の斜に構えたツイートのうち、大半は主語が大きかったり、本人の欠陥を考慮していなかったり、とにかく何の感心も得られないものが多い。
そのくせ、否定的な返信に対しては、ろくな反論もできてないのに「こういうかわいそうな人もいるんですね」といい、「こんなビシッと言ってくれる人いなかった!」といった称賛ツイートには「そうなんですよね~」と自慢げに返す。つまるところ、彼らは、賛否両論な意見を出すことで、議論を活発化させたいのではなく、ただ「斜に構えて毒を吐いた」とドヤ顔をし、ちやほやされたいだけなのである。
こういった人間が、「毒舌家」とプロフィールに書くのは、結局ただの予防線なのである。「毒舌家」と前もって書いておけば、毒を吐いても許される、と勘違いする人はなんと多いことか。毒を吐くというのはある程度のリスクを背負うべきなのである。
毒を吐くということについて
デジタル大辞典によれば、毒を吐くというのは、
「嫌みを言う。相手のことをけなす。毒づく。」
という意味になるらしい。この毒を振るうものを毒舌家というようだ。
つまり、「毒舌家」というのは原義の段階で、予防線になりえない。他人に嫌味を言うということは、他人に嫌味を言われて当然だし、そのリスクは背負うべきである。
とても勘違いしている人が多いが、よく現実のコミュニティで見られる自称毒舌家の大半は、これを理解していないし、自分が嫌味を返されると不快感を示すのだ。嫌味を受け入れられない毒舌家は、一方的に不快感を生産し続ける人間となり、当然の帰結として嫌われる、孤立するものである。
この毒舌、最近では「真理をついた皮肉」であったり、「ユーモアを交えた悪口」も含まれるようだ。どうやら、Twitterで見られる毒舌家の大半は、嫌味を言い続けるアカウントというより、「真理をついた皮肉を言ってチヤホヤされたい」人々と定義することができそうだ。
しかし、この真理をついた皮肉、というのは本当に難しい。何事も先駆者になるのは大変なことだが、これと同じように、誰も発見していない皮肉を探し出すというのも大勢の人にとって途方も無い作業であり、毎日のようにTwitterでバズるわけないのである。つまり、自称毒舌家の真理をついた皮肉は、真理をついた皮肉ではないのだ。
その大きな理由として、主語が大きかったり、本人の欠陥を考慮していないから、ということを挙げた。ただし、これらのツイートはそれ以前に根本的な問題がある。
この種類のツイート、真理をついた皮肉でもなんでもなく、そんなこと君が言う前からみんな知っているよ、となることが本当に多い。それぐらいのことを、あたかも「俺は知ってるけどみんなは知らないだろう」と認識してしまう時点で、その人間はたかがしれてしまうのである。
よく、こちらが言わなくてもわかるようなことを、いちいち指摘してきて会話が潤滑に進まずイラついた、ということがあると思う。この自称毒舌家さんたちは、このいちいち指摘してくる人間と似ている。根本的に、「こいつわかってねぇなと」いう前提があり、他人へのリスペクトが足りず、想像力が足りていないことを全く認識していていないのである。
俺は、Twitter上の自称毒舌家が昔からなんとなく嫌いだったが、そもそも他人へのリスペクトが足りていない人、想像力が足りていない人が嫌い、ということを考えれば、当たり前のことだった。
おまけ
友人に「それは毒舌家に限らないのでは」と言われ、あぁなるほどなと思った。確かにそうだ。称号とは他人につけられるもので、自称するものではないのだ。
他人に認められて初めて毒舌家と言われるようになるのだ。認められるというのはとても難しいことである。そしてそれに驕ってもいけない。真の毒舌家は、自分のことを毒舌家とは言わないものである。
おまけの部分だけでこの考察が終わったのではないか、ということはあまり考えないようにした。
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