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11月, 2018の投稿を表示しています

俺が求めているもの

求めているもの 俺が求めていること、やりたいこと、それは何なのか、ずっと考えてきたし、未だに具体的な答えは出ていない、もしかしたら一生でないかもしれない でも、最近、それは一生答えが出ないほうがいいのではないのかと、気づき始めている ある種、人生は、何か自分探しの旅、自分がやりたいことを探す旅、なーんて位置づけている人は結構いると思う 俺も最近までそう考えてきたし、これに類する記事は何回も挙げてきたと思う でもやっと、俺が求めてきたもの、それを抽象的ではあるが、やっと文字にできるようになった 結論から言おう、俺が求めてきたもの、それは、自分の想定をいい意味で超えてくるもの、である 言い換えれば、俺から見て、面白いかどうか、とも言える、しかし、俺の中の面白さの枠組みというものは2つある、一つは先ほど述べたとおり自分の想定を超えてくるもの、もう一つが、自分の中にある、これは面白いぞ、という既存の枠組みに嵌っているもの、そういう意味では、俺から言わせれみれば、単純な面白さではない 勿論、後者の追求というものも、非常に有意義だと思う、物事をより深く知るということは、さらなる発見の可能性だってある でも、でも、俺が、人生をかけても探し出したいことは、果たしてそういうことなのだろうか? 俺は最近、研究職も面白いかなぁみたいなことも考えていた、でも、どうも、長続きをする予感が全くしなかった そんなことを考えながら、俺の想像を遥かに超えた、衝撃を与えてくれたものを思い出してみた ポケットモンスタークリスタル、パワプロクンポケット7、ハリーポッター、中高の数々の面白い同級生、涼宮ハルヒの憂鬱、League of Legends ざっとこんなところだろう、どれも、当時の衝撃は未だに忘れられないものがある 俺は、中高のとき、よくアニオタ、萌え豚などと勘違いされていたような、別にそうでもなかったような、まぁはたから見ればそう思われていてもしかたがないと思う しかし、俺がなんでアニメをよく見ていたのかというと、今を振り返ってみれば、結局ポスト涼宮ハルヒを探す旅に出ていた、それだけなんだと思う あの1話を見たときの衝撃は今でも忘れない 結局、ある種ニコチン中毒者、アルコール中毒者のように、涼宮ハルヒ中毒者の一人...

チャイムの音

チャイムの音 キーンコーンカーンコーン 午後3時、お決まりのかねが今日もなる ぼくはさいきん、この音を聞くのがきらいだった 「ねーねー帰りおまえんちいっていい?」 「いいよ!先週買ったスマブラやろうぜ!」 「それ俺もきていい?」 「なぁ、お前もくる?」 タツヒコがいつものように俺にも声をかけてくれる 「いやおれ今日もジュクあるから、ごめんな…」 「そうか…」 「おい、はやく行こうぜ、ガオガエンってほんとうにつよいのかよ?」 「じゃあな、あ、ガオガエンはねー」 タタタタタタ… いつものようにタツヒコたちの足音が遠ざかると、なんだかとてもかなしいきもちになる ぼくは、ことしの3月までは、ふつーの小学生だった 授業が終わると、タツヒコやカッチャンの家にいって、ゲームをしたり、ときには公園にいって、かけっこだったり、野球だったり、サッカーだったり、いろいろなことをやった それが、あたりまえのことだとおもっていたし、そんな毎日がずっと続くとおもっていた ぼくが、”ジュク”というものに行きだしたのは、ことしのはるやすみ、五年生にあがるまえのことだった ぼくのおねえちゃんはとっても頭がよかった じぶんからママにジュクにいきたいといいだしたのは、いつのころだろうか、たしか、ぼくが一年生だったころだから、三年生ぐらいだったきがする それから、みんなでばんごはんをたべるときに、ときどき、おねえちゃんがうれしそうに「せんしゅうのクミワケテストで、はじめてSクラスに入れたの!」「この前のシュウレイテストで、はじめて1位をとったの!」と、いっていたのをぼんやりとおぼえている そんな姉も、ことし、めでたく、ダイイチシボ―というやつにゴウカクした、なんでも、県内でいちばんむずかしいチュウガッコウらしく、ママが泣いてよろこんでいた それからしばらくして、ぼくのママがニコニコしながら、ぼくに「あなたもジュクへ行ったらどう?」といってきた 「なんで?」 「あなたも、ジュクに入ってベンキョウすれば、おねえちゃんとおなじようにいいチュウガッコウにはいれるわよ」 そのとき、ぼくのまわりでジュクに行っていたのは、クラスでいちばんアタマがいい、シューイチくんだけだった なんでも、ジュクというのは...

日本語の奥深さについて

日本語の奥深さについて 突然だが、俺がこう見えて、ツイートするときであったり、ブログ記事を書くときに、ひらがな、漢字、カタカナ、どれを使うか、気を遣っているのをお気づきの方はどのくらいおられるだろうか 何を言っているのかわからないという人もいると思う、まず具体例を挙げてみよう ちょうど今読んでいる、七不思議オーバータイム、かの有名な涼宮ハルヒの憂鬱の、5年ぶりの新作描き下ろし、ここのある一節を読んで、この記事を書こうと思ったのだがそもそもの始まりだったということはさておき、その一節を下に記してみる ”最後まで詠み終え、ほっとしたように朝比奈さんは手にしていた札を机にそっと置き、「ふう」と、手元の専用湯飲みを取ると煎茶をひとくち飲んだ” どこの部分に俺がインスピレーションを受けたか、お気づきだろうか 「ひとくち」飲んだ、ここである ひとくち、これは当たり前のことではあるが、「一口」と書くこともできる、しかし谷川流はひとくちとした ここに対して、いくつかの解釈が行える、漢字と日本語のバランスを大事にした、朝比奈みくるの可愛さを表現するのに、ひとくちという非常に柔らかいひらがなを用いた、特に何も考えていなかった ただ、どれにしても、彼の日本語に対する感性が非常に高いということが、わかるだろうか 日本語というのは非常に特殊な言語だと思う、そもそも、何か一つの状況を表すのに、いろいろな表現ができてしまうという点でまず特殊だし、日本語という枠組みのなかに、実に3つもの形、日本語、カタカナ、漢字、この3種類が混在している これは、言わせてもらえば、無駄だ、と考えることがないわけではない、英語がおおよそ26種類の文字のみで過不足なく表現できているというのもあるし、英語が世界標準の言語になったほうがいろいろ効率がいいのではないのかと、考えないわけではない、まぁそうするといろいろと問題が発生するし、特にそういう話がしたいわけではないので、詳しい言及はしない 一方で、ある文をパッと見て、あぁこれはふわふわしている、あぁこれはカクカクしている、あぁこれは機械的だ、こう思わせられるのは日本語だけだと思う(※筆者は日本語と英語以外わかりません) 例えば、「あなたはかわいいです」、という文章を英語で表してみると、おそらく「You ...

ついに俺にあった勉強法を見つけてしまった

それは 歩きながら勉強する、もっというと覚える まず、教科書を読むなり、自分でまとめるなりして、理解した後に、外を歩きながら、自分の頭で整理しながら、思い出しながら、覚える もともと、歩きまわりながら勉強することは昔からよくしていたのだけれど、こっちのほうが格段に集中力と効率が高いということに今更気づいた 理解したことは、ワードなりにまとめて、スマホやタブレットで見れるようにするとなおさらいいのかもしれない これのもうひとつ素晴らしいところは、運動不足も補えることですね 実際にやってみた ファースト暗記まで歩きながらやるのはガイジだった 図やストーリーなどを活かした、暗記理解の模索