あらかじめ
軽音の話ではない
どういうこと?
アニメ”けいおん”、俺がちょうど中学二年生のころだろうか、非常に学校内で流行っていた
14歳という年頃、ちょうどオタクを生みやすいという時期もあったし、”けいおん”の2期も放送されていた
実は、というほどでもないが、周囲の盛り上がりに反し、当時の俺はこの”けいおん”というアニメ、あまりおもしろいとは思っていなかった
別に、ひねくれていたとか、なんとなく流れに逆らいたかった年頃だったとか、そういう話ではない
単純に、つまらなかったのである
そもそも、俺がアニメをよく見るようになったのは、”涼宮ハルヒの憂鬱”が大きな要因だった
俺たちがよく知る日常の中で起こる、不可解な現象の数々、あれほど次を楽しみにしながら見ていたアニメは、後にも先にも、ハルヒぐらいだっただろう
俺は、かなり前に、おもしろさについて定義したことがあった
そして、俺にとってのおもしろさ、それは、自分の想定をいい意味で超えてくるかどうか、これがすべてだったように思う
そういう意味では、”けいおん”というアニメは、どこにでもあるような日常のなかで、ありふれたことが淡々と起こる、これが12回繰り返されたのを見て、なんだこれ?となった、それが俺と”けいおん”との初対面だった
あれだけ、世間的に評価され、おすすめされていたアニメが、こんなにつまらないと感じたことも、”けいおん”ぐらいしかなかった
当時の俺は、なぜかどんなにつまらないアニメでもすべて見切る、という方針を立てていたゆえ、”けいおん”2期もすべて見た、その上でも、やはり何も感じることはなかった、有り体にいえば、時間の浪費にも似た何かだった
けいおんを見て感動した!と言っているやつもいたぐらいだが、本当に理解できなかった
映画”けいおん”も友人と見に行った、たぶん一人では見に行かなかっただろう、それくらいのものだった
時は経ち、俺は大学生になった
ちょっとしたきっかけがあって、友人と”けいおん”を見ることになった
あぁ、この子の名前なんだっけ、唯だ、みたいなことを頭で思い起こしながら、あのころと同様に、淡々と見ていた、つもりだった
しかし、12話を観終えたときの俺は、なんだかとてもさびしい気持ちになっていた
決して、おもしろかったわけではない
年の経過というものは、あらゆることをつまらなくする、そういった観点からいえば、おもしろくなる、はずはなかった
ちょっとした感傷に浸っていた俺は、友人があれこれ言うのをぼんやり聞きながら、なんでさみしいという気持ちを抱いたのだろうか、考えた
先程も述べたとおり、”けいおん”とは、ありふれた日常の中で、他愛のないことが淡々と起こる、というアニメで、少なくとも、俺がおもしろいと感じる要素は一つもない
ではどこにさびしさを覚えたのか、答えは一つ、ありふれた日常が、すでにありふれたものではなかったからである
朝、友達と電車の中で会って一緒に登校する、教室、他愛のないおしゃべりをする、昼休み、机を囲んでご飯を食べる、部活、あぁでもないこうでもないと言いながらワイワイやる、帰りがけのコンビニ、アイスを食べながらダラダラする
中学生のときも、高校生のときも、それは当たり前のことだった
しかし、当たり前だからこそ、それがとても楽しかったということ、それは失って初めて気づくものである
アニメ”けいおん”は、中高生にとっての当たり前が詰まっていた
今でも、”けいおん”はおもしろい、とは言えない、でも、自信を持って勧めることができる、唯一のアニメである
何が言いたかったのかというと
タイトルにある通り、大人になって、”けいおん”を見て、何かひとつでもプラスに感じることがあるやつは、少なからず楽しい学生生活を送ったことだろうし、何も見いだせず、ただつまらない、と思うやつの人生は、本当につまらないし、そいつ自身がつまらない可能性が高いだろう
中学高校のいずれでも青春を満喫できなかったやつは、まず間違いなく人格形成の段階で破綻しているからね、ロクなやつじゃないよ、きっとね
俺はあんまりこういう過激なことは書かないようにしているんだけど、これを読むであろうと想定している人々、間違いなく大丈夫だろうと確信したから投稿したわけで、こういうことを世間でおおっぴらに発表できる人間は本当に尊敬する
軽音の話ではない
どういうこと?
アニメ”けいおん”、俺がちょうど中学二年生のころだろうか、非常に学校内で流行っていた
14歳という年頃、ちょうどオタクを生みやすいという時期もあったし、”けいおん”の2期も放送されていた
実は、というほどでもないが、周囲の盛り上がりに反し、当時の俺はこの”けいおん”というアニメ、あまりおもしろいとは思っていなかった
別に、ひねくれていたとか、なんとなく流れに逆らいたかった年頃だったとか、そういう話ではない
単純に、つまらなかったのである
そもそも、俺がアニメをよく見るようになったのは、”涼宮ハルヒの憂鬱”が大きな要因だった
俺たちがよく知る日常の中で起こる、不可解な現象の数々、あれほど次を楽しみにしながら見ていたアニメは、後にも先にも、ハルヒぐらいだっただろう
俺は、かなり前に、おもしろさについて定義したことがあった
そして、俺にとってのおもしろさ、それは、自分の想定をいい意味で超えてくるかどうか、これがすべてだったように思う
そういう意味では、”けいおん”というアニメは、どこにでもあるような日常のなかで、ありふれたことが淡々と起こる、これが12回繰り返されたのを見て、なんだこれ?となった、それが俺と”けいおん”との初対面だった
あれだけ、世間的に評価され、おすすめされていたアニメが、こんなにつまらないと感じたことも、”けいおん”ぐらいしかなかった
当時の俺は、なぜかどんなにつまらないアニメでもすべて見切る、という方針を立てていたゆえ、”けいおん”2期もすべて見た、その上でも、やはり何も感じることはなかった、有り体にいえば、時間の浪費にも似た何かだった
けいおんを見て感動した!と言っているやつもいたぐらいだが、本当に理解できなかった
映画”けいおん”も友人と見に行った、たぶん一人では見に行かなかっただろう、それくらいのものだった
時は経ち、俺は大学生になった
ちょっとしたきっかけがあって、友人と”けいおん”を見ることになった
あぁ、この子の名前なんだっけ、唯だ、みたいなことを頭で思い起こしながら、あのころと同様に、淡々と見ていた、つもりだった
しかし、12話を観終えたときの俺は、なんだかとてもさびしい気持ちになっていた
決して、おもしろかったわけではない
年の経過というものは、あらゆることをつまらなくする、そういった観点からいえば、おもしろくなる、はずはなかった
ちょっとした感傷に浸っていた俺は、友人があれこれ言うのをぼんやり聞きながら、なんでさみしいという気持ちを抱いたのだろうか、考えた
先程も述べたとおり、”けいおん”とは、ありふれた日常の中で、他愛のないことが淡々と起こる、というアニメで、少なくとも、俺がおもしろいと感じる要素は一つもない
ではどこにさびしさを覚えたのか、答えは一つ、ありふれた日常が、すでにありふれたものではなかったからである
朝、友達と電車の中で会って一緒に登校する、教室、他愛のないおしゃべりをする、昼休み、机を囲んでご飯を食べる、部活、あぁでもないこうでもないと言いながらワイワイやる、帰りがけのコンビニ、アイスを食べながらダラダラする
中学生のときも、高校生のときも、それは当たり前のことだった
しかし、当たり前だからこそ、それがとても楽しかったということ、それは失って初めて気づくものである
アニメ”けいおん”は、中高生にとっての当たり前が詰まっていた
今でも、”けいおん”はおもしろい、とは言えない、でも、自信を持って勧めることができる、唯一のアニメである
何が言いたかったのかというと
タイトルにある通り、大人になって、”けいおん”を見て、何かひとつでもプラスに感じることがあるやつは、少なからず楽しい学生生活を送ったことだろうし、何も見いだせず、ただつまらない、と思うやつの人生は、本当につまらないし、そいつ自身がつまらない可能性が高いだろう
中学高校のいずれでも青春を満喫できなかったやつは、まず間違いなく人格形成の段階で破綻しているからね、ロクなやつじゃないよ、きっとね
俺はあんまりこういう過激なことは書かないようにしているんだけど、これを読むであろうと想定している人々、間違いなく大丈夫だろうと確信したから投稿したわけで、こういうことを世間でおおっぴらに発表できる人間は本当に尊敬する
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